(曙関の訃報に際し、「やっと話してくれた「脱北者」による北朝鮮」は明日配信とさせていただきます)

第64代横綱・曙太郎さんが昨日、天に召された(享年54歳)。彼の死はあまりにも早すぎた。

しかし、彼が過去7年間壮絶な闘病生活を送っていたことを考えれば、神様が彼を苦しみから解放したのかもしれない。

彼と初めて出会ったのは1993年の大相撲香港巡業だった。

 

当時、私は欧州系の投資銀行香港支店に勤務していた。中国と香港に驚異的な速度で出店を進めていたスーパー「ヤオハン」がスポンサーとなり、大相撲香港場所が実現した。

香港返還ブームもあり、日系金融機関はすでに香港オフィスを80社以上開設されていた。

各社は人気力士の自由時間を獲得しようと画策していたが、英語の問題や公平性への懸念から、主催者のヤオハン香港幹部から私に横綱、曙関の対応を依頼された。それが彼との出会いである。

 

貴乃花宮沢りえの婚約解消」後の時期でもあり、関取衆の行動やマスコミ対策を含めて緊張感はあった。

そのような事情も含めて、ここで曙関について語ることとする。

本人がファーストネームで呼んでくれることを許可してくれたので、チャドと呼ぶ(本名「チャド・ローレン」)。

お相撲さん一行は、今はないニューワールドホテルに宿泊していた。

香港巡業は、相撲協会にとっては海外巡業の10回目。

海外開催経験はあったものの、アジアでの開催は初めて。

 

まず最初に問題となったのは、ベッドと風呂の大きさが欧米と異なり、サイズが合わないことだった。

特に、203cmのチャドや287kgの小錦関などは、香港のほとんどのホテルでは対応不可。

そこで、ニューワールドホテルが名乗りを上げ、対応してくれたため、ニューワールドホテルに決定。

お相撲さん「あるある」な話である。

 

多くの関取衆は、香港の夜の街で遊ぶのを心待ちしていたが、同行している親方衆に対しては、日本から写真週刊誌の記者とカメラマンが大挙香港に来ていることから、「お持ち帰り」はしないようにと口頭で通達があった。

 

その年の1月、チャドは1月場所で連続優勝し、横綱に推挙された。外国人初の横綱である。

同期の貴ノ花の大関昇進も決まっており、20歳5ヶ月で史上最年少大関となった。

日本プロスポーツ大賞を貴ノ花が受賞するなど、相撲の人気は最高潮に達していた。

 

しかし、同月、貴ノ花と宮沢りえが婚約解消するなど、貴乃花へのパパラッチは十数人にも及んでいた。

翌月の2月が香港巡業となり、貴乃花だけでなく、人気力士であるチャド、小錦、若乃花、寺尾などへの週刊誌記者やカメラマンの追跡は想像以上にしつこいものだった。

現地人を雇う先も多く、やりすぎ感は否めない様相だった。

 

そのような状況だったため、チャドは外出する際には用意周到する必要があり、親方は私に相談してきた。

相談されても、身体が大きいため、どうしても隠れて移動することはできない。

大型業務用冷蔵庫を移動させるようなものである。

 

まず、米車の大型バンをレンタルしたが、後部座席のサイズが合わない。しかし、チャドは我慢して座ってくれた。

小錦関はどう移動したのか不思議でならない。

 

チャドは比較的中華料理が好きだったが、海鮮料理は日本人力士ほど好きではなかったため、肉料理メインの香港島内の中華レストランの宴会室を貸切り、チャドと親方、そしてヤオハンのトップとの食事会を開催した。

チャドはその頃すでに糖尿病を発症しており、糖質の摂取を管理し始めていたが、「食材香港」の料理に舌鼓を打ち、周囲が驚くほど料理を平らげた。

故郷の味がするのか、パイナップルが入った料理を喜んで食べていたのが印象的だった。

 

彼がおかわりをした料理があった。「星州炒米」という焼きビーフンで、俗にシンガポールヌードルと呼ばれるカレービーフン(香港にはシンガポールヌードルがあるが、シンガポールには存在しない。反対に、シンガポールには香港ヌードルがあるが、香港にはない。面白いものである)。

多くの力士は食事後、タニマチなどと一緒に香港島や九龍の大型ナイトクラブやフィリピンカラオケに繰り出していた。

中には、ダメだと言われているにも関わらずお持ち帰りを試みる力士や、マカオに博打に行った力士もいた。

 

しかし、チャドは横綱昇進後間もないこともあり、自重する行動を取り、食事後はホテルのスイートルームに戻った。

私はチャドに誘われたので、彼の部屋で世間話をすることにした。

 

チャドは、疲れていたのか、面倒になったのか、すでに英語しか話さなくなっていた。

彼の英語は、巨人には似合わないほど可愛らしい単語をよく選んだのが印象的だった。

幼稚というわけではなく、故郷のハワイでの幼少時代の楽しい思い出がよほど強かったのだろうか、現地の言葉も頻繁に混ざっていた。

結局、チャドとは毎晩話すことになった。

 

そこで彼の人生の苦悩の一つを知ることになった。それは相撲協会の閉鎖的な側面だある。

 

横綱になっても親方になるためには年寄株を購入しなければならない。

その金額は当時数億円もする。のんびりとしたハワイ出身であっても合理主義の米国人であるチャドは、そんな大金を投じて後で回収できるのかと悩んでいた。

さらに、相撲協会の理不尽な階級制度と横のつながり、日本に帰化し日本人の奥さんを持ち、日本流の根回しができなければ、相撲界に留まることは難しいことがチャドを悩ませた。

当時、奥さんは後援会が選んだ女性でないと支援してもらえないという事実もあった。チャドは、横綱になったばかりにも関わらず、恋愛すら自由が手に入らない相撲社会に、すでに疲弊し始めていた。

彼がこれからどうなるのかと私は心配し始めた。

そして、彼が横綱を引退した後、一時期相撲界に残ったが、その後格闘技界へ進出した。

格闘技で少しくらいは活躍できる自信はあったようだが、「殴り合いは好きではなかった」と後年語ってくれた。

彼はただ、ファイトマネーを得てゆっくりとした生活を送りたいだけで、格闘技の世界に誘われるままに入ってしまったようである。

 

その後は、食事の管理も少なくなり、筋力低下と糖尿病の合併症に悩まされていった。

 

チャドが格闘家として練習していた最後の頃、一緒に食事をしたことがある。

その時、彼は横綱時代とは異なり、好きなものだけを大食いするようになっていた。

ストレスだったのか、ショーとしての格闘技ビジネスのためだったのか、もう聞くことはできない。

 

チャドと話すたびに、

「相撲は好きだ。同期の若貴、魁皇は戦友だ。でも、相撲協会とそこに取り巻く人たちはクズだ。外人は相撲協会で偉くなることはない。私の師匠(元高見山)も言いたいことは控え、全て受け身で広告塔の仕事しか与えられない。そんな世界はダメだ。もっと解放的・国際力を強めなければプロスポーツとは言えない」

と言っていたことが印象に残る。

 

最後まで、チャドは相撲を愛していた。

もし天国というものが存在するのであれば、チャドは今頃、好きな相撲を取りながら、晩年の趣味だった超大型オートバイで雲の上を走っているのだろう。

 

チャド、外国人に対する閉鎖的な態度は大きくは変わっていないが、緩慢ながらも相撲界は事件を繰り返しながら、あなたが望んでいた改革は進んでいます。

チャドに合掌!