チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ。
その名は世界に広く知られていますが、彼の人生は波乱に満ちています。
なぜ彼は故郷を離れ、亡命の道を選んだのでしょうか?
指名されたはずの少年がなぜ行方不明になったのか?
次のダライ・ラマは誰になるのか、そして、そもそもダライ・ラマとはどのような宗教の指導者なのでしょうか?
先月1ヶ月香港からインドに会いに行ってきました。
本稿では、ダライ・ラマの人生とチベット仏教の現状を、読者の皆様に分かりやすく、そして深く理解していただけるよう、紐解いていきます。
彼らの実情を知ってもらいたいと願います。
亡命の背景とチベット仏教の教え
ダライ・ラマ14世、テンジン・ギャツォは、チベット仏教ゲルク派の精神的指導者であり、観音菩薩の生まれ変わりとされています。
彼の人生は、20世紀半ばの中国によるチベット侵攻と深く結びついています。
1950年代、中国共産党政府はチベットへの支配を強化し、チベット文化や宗教を抑圧する政策を進めました。
これに対し、チベットの人々は抵抗を試みますが、中国人民解放軍の圧倒的な武力の前に敗れます。
1959年、ダライ・ラマは、多くのチベット人とともにインドへと亡命し、以降、現在に至るまでインドを拠点に活動を続けています。
ダライ・ラマの亡命は、単なる個人の移動ではありません。
それは、チベット仏教という独自の文化と精神性を守るための、苦渋の決断でした。
チベット仏教は、大乗仏教の一派であり、輪廻転生、カルマ、そして悟りを目指す教えを根幹としています。
ダライ・ラマは、その教えを世界に広め、平和と慈悲のメッセージを伝えるメッセンジャーとしての役割を担っています。
消えたパンチェン・ラマと世継ぎ問題
ダライ・ラマの他にも、チベット仏教には重要な転生者として「パンチェン・ラマ」が存在します。
パンチェン・ラマは、ダライ・ラマが転生する際にその正当性を確認する役割を担うなど、相互に重要な関係にあります。
1995年、ダライ・ラマは、ゲドゥン・チョエキ・ニマ少年をパンチェン・ラマの転生者として認定しました。
しかし、その直後、少年は中国政府によって連れ去られ、行方不明となってしまいます。
中国政府は独自のパンチェン・ラマを指名しており、これはチベット仏教の伝統的な選定方法を無視したものであり、ダライ・ラマの権威を失墜させる狙いがあるとされています。
次のダライ・ラマの世継ぎ問題もまた、複雑な様相を呈しています。
チベット仏教の伝統では、高僧の転生は、高僧自身が残した手がかりや、特定の兆候に基づいて捜索され、最終的にはダライ・ラマ自身や高僧たちの合意によって認定されます。
しかし、中国政府は、次期ダライ・ラマの認定にも介入する姿勢を見せており、この問題はチベット仏教の未来に暗い影を落としています。
次のダライ・ラマが男性である必要があるかという問いですが、これまでのダライ・ラマは全て男性です。
しかし、ダライ・ラマ自身は、将来的に女性のダライ・ラマが誕生する可能性についても言及しており、性別に厳密な規定があるわけではありません。
重要なのは、その人物が観音菩薩の化身としての資質と、チベット仏教の教えを正しく広める能力を持っているかどうかだと考えられています。
チベット仏教の現状と国際社会の関心
チベット仏教の信者数は正確には把握されていませんが、チベット自治区、中国の他のチベット人居住区、インド、ネパール、ブータンなどに広く信仰されています。
また、欧米諸国を中心に、チベット仏教の教えに共鳴する人々も増え、その影響力は世界中に広がっています。
世界的な有名人の中にも、ダライ・ラマやチベット仏教に共感を示す人々は少なくありません。
例えば、俳優のリチャード・ギアは熱心なチベット仏教徒として知られ、チベットの自由を訴える活動を積極的に行っています。
日本では、ダライ・ラマの講演会が度々開催され、多くの人々がその教えに触れる機会を得ています。
世界の宗教におけるチベット仏教の位置付けは、独自の歴史と文化を持つ少数派宗教として、その精神性が高く評価されています。
ダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞するなど、国際社会からもその平和への貢献が認められています。
しかし、チベットにおける宗教弾圧は依然として続いており、国連などの国際機関も、人権侵害の是正を中国政府に求める声明を発表していますが、中国の内政問題という立場から、具体的な救済措置は限定的です。
チベット仏教にとっての「敵」は、直接的な武力を持つ中国政府の弾圧だけでなく、チベット文化の消滅の危機や、情報統制による精神的な自由の抑圧も含まれます。
ダライ・ラマとチベットの人々は、非暴力と対話を通じて、自分たちの文化と宗教を守り、平和な未来を築くために闘い続けているのです。